2009年10月21日水曜日

軽井沢の死

軽井沢で短い夏を過ごしたことがある。
朝、木立を抜けて自転車を走らせると、ひんやりした空気が次第に湿り気を帯びた温いものに変わっていく。土地の精霊が私を包み込むのだ。
眼前にぱっと現れるせせらぎや、湖沼や古い家々に、目を奪われる。
人の気配と、気配を消そうとする生きものたちのせめぎあいが、密やかに行われているようだった。

この地は、イギリス人たちが故国に似せて町づくりをしたという。
私には、かの地より少し淡白な印象だ。
強いて言えば、ロンドンの北のある会員制ゴルフ場へ向かう道なりが相似しているかもしれない。
古いような新しい感じ。生きているような死んでいるような感じ。

ただ、経済原理が触手を伸ばしてきているために、町は少しずつ変化する。
ひと山当てた人と、ひと山当てようとしている人が共に暮らす。
しかし、軽井沢の風土には、欲望を静める力があるらしい。
ここでは人は皆、おとなしい羊のように散歩する。

自然と共に生きる姿勢は、諦観につながる。
そんな大きなあきらめの層が、この地を覆っていることは確かだと思う。
私より少し年上の、才能にあふれた音楽家が命を断つには、
最適の場所だったのかもしれない。 合掌。

2009年10月5日月曜日

日本の錯覚

日本橋で、日本伝統工芸展を見た。
日本各地で作られている工芸品は、その洗練も、繊細も、渋みも、現代性も、
見る者を圧倒してやまない。集中して一点ずつ丹念に見ていると頭痛がしてくるほど。
作り手の精緻さに対する強い思いが伝わってくるのだ。
この思いは、カナレットのベニス大運河や木原康行の版画にも感じられるものだが、
工芸品にあるのは技巧で、コンセプトではない。

日本発のアート、ファッション、食が、世界を席巻しつつある。
かなり有能な人でさえ、こう発言することが多いが、大きな視野から眺めると
彼我の認識のずれを感じてしまう。

日本の文化はサブカルチャーであり、今のところ決して世界を動かすようなものではない。
等級の高いワインを産み出すことはできても、
等級制度を作り、ワインのマーケットバリューを確立するようなコンセプトは持ち得ない。
等級の優劣は、基本的な水準以上は、誤差の範囲の問題なのだ。
たしなむ喜びはもちろん尊く、私たちはそのための力を身につけねばならないのだが、
そのレベルで満足しているようでは、日本の将来は知れたものだろう。

日本サッカーの伸び悩みや、オリンピック招致失敗を目の当たりにするにつけ
極東の島国のひとりよがりが心配になる。
唯一、鳩山総理の25%削減発言に、私はほのかな期待を抱いている。
うまく行けば、歴史上はじめて、日本がスタンダードを設定し
世界を動かすことができるかもしれないからだ。
コペンハーゲンへは、おっとり刀で駆けつけた総理だが、
環境会議に臨む時は、ぜひ集中して名演説をぶってほしいものと、思う。